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キリスト教入門(2)

 聖書は、私たちの住んでいる世界は偶然にできたのではなく、神が、光と空、海と陸、植物や動物をつくられ、最後に人間をご自分に似せてつくられたと記録しています。
そして神は、つくられたものを祝福し、創造のわざを終えられたとあります。

 神は人間に対して「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し」(イザヤ書43:4)ていると語っておられます。
創造主なる神に祝福され、愛され、生かされていることは、素晴らしいことです。

 また、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(レビ記19:2)とあり、神は私たちに「聖さ」を求めます。
神に愛され、神を愛し、神が愛される対象を神と同じように愛そうとして生きる時、人間は本当の生き甲斐や、喜びを感じることができるのだと思います。

 しかし、残念ですが、聖書はこのように断言しています。
「正しい者はいない。一人もいない。
 悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
 善を行う者はいない。
 ただの一人もいない。
 彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。
 口は、呪いと苦味で満ち、
 足は血を流すのに速く、
 その道には破壊と悲惨がある。
 彼らは平和の道を知らない。
 彼らの目には神への畏れがない。」

 (ローマの信徒への手紙3:10~18)

 罪とは、神に背くことです。
聖書を読み、神の御心やご計画が分かっているのに、わざと神が望まない方を選択すること、神が悲しむようなことを選択することです。
人を憎み、精神的にも肉体的にも一生消えないような傷を人に負わせたり、偽りを言ったり、不品行なことを行うなど、罪を重ねれば、自然と神から離れるでしょう。
罪を繰り返せば繰り返すほど、神への愛も、神からの祝福、希望、喜びも冷えるでしょう。
神がくださる祝福や愛、求められている「聖さ」に応えようとせず、罪のあるままでは、決して神と親しく生きることはできません。

 旧約聖書のエレミヤ書 29章 11節には
「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」と記されています。
神は、人間が罪の中で滅びる計画を立ててはいません。
その反対に、災いから必ず救うという計画を立て、主イエスを信じる者には、滅びではなく永遠の命を得ることのできる、平和の計画を立てておられます。

 神は、主イエスをこの世に遣わし、私たちの罪の完全な身代わりとして、十字架にはりつけにされました。
主イエスは十字架の上で、ご自分をはりつけにした者たちのために、「父よ、彼らをお赦しください」(ルカによる福音書23:34)と祈りました。
父なる神は、私たちの罪の赦しの宣言として、死んで墓に葬られた主イエスを、3日後にご復活させられました。

 私たちは、キリストの十字架を受け止め、神の愛に応えるように語りかけられています。
十字架で流されたキリストの血は、私の罪の身代わりに流された血であり、キリストの愛の証です。
皆様に、神様からの祝福がありますように。


 
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