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イエスの御名によって歩む

  使徒言行録 3章1節~10節

クリスチャンの歩みは、イエスの御名による歩みです。
クリスチャンは言い換えると「キリスト者」であるように、イエス・キリストの御名前を掲げて日々生活しています。
それでは、「イエスの御名によって歩む」とは、具体的にどのような歩みでしょうか。

今日の御言葉 使徒言行録3:1‐10は、イエスの御名によって歩むとはどういうことか、そしてその恵みについて教えています。
使徒言行録3章から登場する足の不自由な男性の生き方は、ペトロの「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」という言葉によって大きく変えられました。

今回はこの聖書箇所から、イエスの御名によって歩むことについて、3つのことに心を留めたいと思います。
イエスの御名によって歩むとは、
一つ目に、見るべきお方をよく見て歩むこと、
二つ目に、自分の思いでなくイエスの御名を信頼する歩みであること、
三つ目に、ありのままの自分になる歩みである、ということです。

一つ目、イエスの御名によって歩むその歩みとは、見るべきお方をよく見て歩む歩みです。
私たちの地上での歩みにおいてイエス・キリストは、道に迷うことがないように、私たちを確実に導いてくれる道しるべです。

​今日の中心人物である男性は、生まれた時から足を動かすことができませんでした。
やがて周りの友人たちが仕事をするようになっても、この人は歩けませんでした。
自分一人ではどこにも移動できないので、働くこともできませんでしたが、生きていくための食べ物やお金を得るために、ある年齢から毎日物乞いをする生活を始めました。
大勢の人たちが通るところに運んでもらって、前を通っていく人たちに「恵んでください。」と、頭を下げる毎日でした。

この人が物乞いをしていたのは、「美しい門」と呼ばれる「神殿の門」がある場所でした。
この門の奥にある神殿の境内に、神様を信じるユダヤ人たちが祈りやささげものをささげに来ていました。
その人たちは貧しい人への施しも大切にしていたので、物乞いをする人たちはこの場所を選んで来ていたのでした。
神殿の中で物乞いをしても良さそうにも思いますが、律法には足が不自由な者は入ることができないという規定がありましたので、この男性が入ることを許されているのが神殿の境内に入る門の、さらに手前にある美しい門のところまで、ということなのでした。

ある日、イエス様の弟子のうちの二人、ペトロとヨハネが、祈るために神殿にやってきました。
足が動かない男性はこの日も、「美しい門」の前に運んでもらい、いつものように物乞いをしていました。
男性は、ペトロとヨハネが神殿の境内に入っていこうとするのを見て、二人に施しを願いました。
すると、ペトロとヨハネは男性の前で立ち止まり、その人をジーッと見つめました。
そしてペトロは、「わたしたちを見なさい」と言いました。
男性は、突然のペトロの言葉を不思議に思ったかもしれません。
それでも、何かくれるのかもしれないと期待して、ペトロの言うとおりにペトロとヨハネをしっかりと見つめました。

男性はペトロの言葉を素直に聞いて、顔の目だけでなく心の目も向けて、全ての意識を集中させてペトロとヨハネを見つめました。
なぜペトロはこのように男性の意識を向けさせたのでしょうか。それは、次の重要な言葉をよく聞くための備えだったのでした。

ペトロが言ったその重要な言葉とは、誰にとっても予想外の内容でした。
3章の6節「ペトロは言った。『私には銀や金はないが、持っているものをあげよう」。
まずペトロは、「銀や金はわたしにはない…」と、「わたしはお金は持っていません」と言いました。
男性は多少気が抜けたかもしれませんが、ペトロは続けます。
持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい』」。
ペトロは、このことをよく聞いてもらうために、男性に「私たちを見なさい」と言ったのでした。

私たちは、人生の道しるべであられる主を見つめ続けることで、イエスの御名によって歩むことができます。
この男性が、それまでは周りを行き交う人々を見て、自分と比べてため息をついていたかもしれません。
いつもお金や食べ物をたくさんくれる人たちを探していたかもしれません。
でも、男性にはそこではない、見るべきところがありました。

私たちも、見なくていいところを見続けてはいないでしょうか。
私たちに御言葉を語っておられる主、まことの命の与え主なる主イエス・キリストを、見つめ続けましょう。
そのことによって、イエス様が私たちに語っておられる命の言葉を受け取ることができるのです。
イエス様はいつも、「わたしを見なさい」「私から目を離さないでいなさい」と優しく仰っています。

二つ目のことに移ります。
イエスの御名によって歩む、それは自分の思いでなくイエスの御名を信頼する歩みです。
イエスの御名によって歩もうとするとき、それを妨げようとするこの世の誘惑や自分の思いが次々と襲ってきます。
私たちはその都度、決断をする必要があります。
それを正しく判断し決断する力が、主イエスの御名への信頼、つまり信仰です。

6節でペトロは「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言いました。
続く7節と8節前半「(7)そして、右手を取って立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、(8)躍り上がって立ち、歩きだした。
ペトロは、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じただけでなく、男性の右手を取り、ぐいっと起こしてあげました。

ここで少し想像を膨らませて、ある人が、横たわっている人を起こす場面をイメージしてみてください。
横たわっている人が立ち上がるには、引っ張り上げる力も必要ですが、同じくらい横たわっている人の意思と協力が必要ではないでしょうか。
例えば、足をひどく怪我をしてしまった人が治療を受けて、医者から完治したと言われたとします。
しかしもし本人が癒されたと信じられず、「まだ立てない!」といつまでも立とうとしなければ、周りが頑張ってもその人はなかなか立つことはできないのではないでしょうか。
でもこの男性は立ち上がりました。

つまり、諦めずに、望みを持って立ち上がろうとしたのです。
この人は「立ち上がり、歩きなさい」と言われて「絶対に歩けない!」と投げ出しても仕方のないような人でした。
というのは、4章22節に「このしるしによって癒やされた人は、四十歳を過ぎていた。」とあるからです。
生まれつき歩けず、40年以上一歩も自分の力で歩けなかった人が立ち上がり歩くなど、常識的には考えられません。
しかしそれが現実となったのです。

この奇跡は、男性がイエス・キリストの御名を信頼したので起こりました。
3章16節「そして、このイエスの名が、その名を冠した信仰のゆえに、あなたがたの見て知っているこの人を強くしました。その名による信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全に癒やしたのです」。
これは、ペトロが、周りに集まってきた人たちに言った言葉です。
男性の変化を知った人たちが集まってきて、中には「ペトロはすごい!」と言ってペトロやヨハネを神であるかのように見る人たちがいました。
そこでペトロはその間違いを正すために説明を始めました。

3章16節でペトロが言っているのは、「歩けなかったこの人を強くしたのは、この人がイエス・キリストの御名前を信じた信仰である」ということです。
つまり男性が、ペトロが命じたことを素直に信じて、イエス・キリストの御名を受け入れたので、この奇跡は起こったのだと分かります。
「自分は一生歩けない」というこの世の常識を脇に置いて、イエスの御名を信頼して心に受け入れました。
男性が自分や世間の考えに囚われていたら、主の御業を経験することなく一生を終えてしまったかもしれません。
しかしこの時男性は、イエスの御名に信頼し、自分の思いを退けました。

「イエス・キリスト」、このお方の御名前には力があり、権威があります。
死を克服された力、全世界を治めておられるその権威です。
イエスの御名への信頼が、私たちの歩みに必要な力です。
私たちも、自分の考えや思いをはるかに優る、このイエスの御名を信頼して、新しい一歩を踏み出しましょう。

三つ目のこと、イエスの御名によって歩むとは、ありのままの自分になる歩みです。
イエス・キリストの御名前を信じて踏み出していく歩みとは、神様に造られた最高の自分、ありのままの自分の姿へと戻っていく歩みです。
これこそ、主の御名によって歩む恵みです。

イエスの御名前を信じたこの男性は、新しい人生を歩み始めました。
歩けるようになったばかりか、霊的な命が与えられました。
3章8節「躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
男性は嬉しくてたまらず、歩き回り躍り出して、心に賛美が沸き上がりました。

今まで男性がいた場所は、門の外でした。
そこで人の施しに頼って生きてきました。
ところが、イエスの御名前を信じた時、今まで傷ついていた肉体も霊も癒されました。
そして今まで入ることを赦されなかった「門の中」へと入ることができました。
主の臨在の場所、神殿の境内に入り、神様に祈りと礼拝をささげる人へと造り変えられたのです。
10節では、喜びと感謝に溢れて神殿の中にいる男性を見た人たちは、驚いて卒倒しそうになった、とあります。
しかしこの神殿で主を賛美し、喜び踊る姿こそ、神様が創造された男性の姿です。

この男性に、私たちの姿が重なり合います。
本来私たちは、神様との豊かな交わりを喜ぶ存在として創造されました。
しかし、神様に背を向けるという罪によって、神様に創造された姿とはかけ離れた生き方をし、そのことにより汚れた存在となり、聖なる神様と交わることはできなくなりました。
それなのに、神様の一方的なご愛により、ただイエスの御名前を信じる信仰によって、主との交わりにもう一度入ることを許されたのです。

主に祈ることも賛美することもできなくなった、傷ついた私たちが、イエス・キリストの十字架で流された血潮によって癒されました。
そして主を求める者へと造り変えられました。
神を礼拝する心、賛美する心、祈る心があるとすれば、それはイエス・キリストの十字架によって与えられた恵みです。

私たちの内に起こった変化は、男性の内に起こった奇跡と全く同様の驚くべき事実であり、何にも代え難い喜びです。
そのことへの深い感謝と、驚くべき愛の御業をなさる主を礼拝しつつ歩む者でありたいと願います。

主の御名による歩みが、男性に明らかな変化をもたらしたように、私たちの生活を確実に変えていきます。
恐らく多くの人が、この男性に「いったいあなたに何があったんですか?」と聞いたと思います。
そして聞かれる度に「イエス・キリストの御名前を信じたんです。あなたも信じてください!」と教えたと思います。

私たちもまた、主を見つめ、信頼する歩みを一歩一歩進みつつ、主が創造されたありのままの自分で、主イエス・キリストの御名を伝える者とさせていただきましょう。

 
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